Japanese Olympian Spirits
第一章 水泳との出会い
中学校に入ってから本格的にはじめた水泳。
決して自分から進んで飛び込んだ道ではなく、はじめは練習が嫌でたまらなかった。
しかしすぐに頭角を現し、記録を次々と塗り替えていく。
私が水泳、しかも背泳の選手になったのは、私にとっては偶然でした。
小学校6年生の9月に開催された校内の水泳大会で、背泳ぎで一着になったのを、たまたま中学校の水泳部顧問の先生が見ていらしたのです。それで「中学校に入学したら水泳部に入って背泳ぎをやるように」とスカウトされたのです。それが水泳をはじめるきっかけでした。
私は1942(昭和17)年2月3日、長崎県佐世保に生まれました。父は農家の次男坊で、戦争が終わって海軍から帰還してからしばらくは、本家、つまり父の兄の家の庭先に離れを建てて一家で住んでいました。母は早くに亡くなりましたが、海軍でいろいろなことを叩き込まれていた父は、炊事はできたし、私たち兄弟のセーターも編んでくれました。
村の中には湧き水が出ている場所が3、4ケ所あり、それを灌漑用水路に流していました。その流れに沿って、野菜や米を洗ったり、馬を洗ったりする水場が設けられていました。水神様も祭ってあり、村のみんなが集まる場所だったのです。そこはまた、子供たちの格好の遊び場でもありました。親が忙しくて相手にしてくれなくても、そこに行けば誰かしらいる。特に夏の間は、潜ったり川エビを取ったりして、真っ黒に日焼けするまで遊んでいました。自然に水に親しんでいたんですね。
とはいえ、小学校の水泳大会で声をかけられて中学校の水泳部に入るまで、誰かについて本格的に水泳を習ったことはありませんでした。水泳部に誘われたとはいえ、正直言って気がすすまなかったんです。まだ水に入るには寒い時期から外で練習をはじめるでしょう。それが嫌だったんですね(笑)。だけども、その頃の田舎の中学生が放課後にすることといったら、家事手伝い。水道がないから、お風呂の水も炊事の水も井戸から汲んでこなければいけない。家にいたヤギの世話、弟や妹の子守りも、私の役目でした。家事手伝いか、それとも水泳か、と考えたとき、当時の私には水泳のほうが楽だと思えたんです。
そういったわけですから、最初は練習が嫌でたまりませんでした。5月から泳ぎはじめるのですが、外のプールの水温は18度くらい。そこで30分から40分も泳ぐと身体が冷えて感覚がなくなってしまいます。それが辛くて、「熱が出た」「腹が痛い」と言ってはさぼったり、本家にあった馬小屋に逃げ込んだり・・・・・・。なぜこんなに練習をしなければならないのだろう、と思っていました。
でも、1年生の夏に熊本県の選手権で優勝すると、俄然泳ぐことが面白くなり、不平を言ったり練習をさぼったりすることは少なくなりました。人間って、成果が上がると面白くなり、やる気も出てくるんですよね。
そして、2年になると県の最高記録を出したんです。全国中学記録の3位でした。
第二章 「君にも世界記録が出せるよ」
高校に進学した夏、病気をきっかけに陥ったスランプ。しかし、それを克服し、翌年に世界記録を樹立。
その影には、画期的な練習方法を導入し、精神面でも支えてくれた黒佐年明コーチとの出会いがあった。
中学卒業後は、「水泳王国」といわれていた筑紫女学園高等学校へ進学しました。入学して間もなく、5月には東京で開催されたアジア大会に出場し、100メートル背泳ぎで日本新記録を出しました。そういうわけですから、高校に入学してはじめてちゃんと登校したのは大会が終わってからなんです。
高校に入ってからコーチについてくださったのが黒佐年明さん。スポーツの名門だった八幡製鉄株式会社(当時)の水泳部コーチをなさっていたんですが、私が筑紫女学園に入ると知って「田中の指導は自分が」と申し出られたということでした。6月には末弘杯高校水泳で優勝、8月には全日本選手権でも優勝。順風満帆に思えましたが、病気を患ったことがきっかけでスランプに陥ってしまったのです。
黒佐コーチの指示もあって、その後9月から12月くらいは、まったく泳ぎませんでした。私としては水泳をするために入った学校でしたから「退学して熊本に帰らなければいけないかもしれない」という不安でいっぱいでした。そんなとき、黒佐コーチは私を八幡製鐵所の陸上部やサッカー部、柔道部の練習の見学に連れ出してくれました。
土曜日になると、学校のある博多から会社のある北九州まで汽車で1時間40分かけて行き、コーチの家に宿泊。日曜日にあちこち見て回りました。あの頃は多くの企業がスポーツに力を入れていて、八幡の運動部にも強豪が多かったんです。水泳の話は一切しません。ただ、あの選手がどんな気持ちで練習しているかを考えろ、と言われました。
そんなとき、200メートル背泳ぎでアメリカの選手が世界新記録を出したという記事が新聞に載りました。黒佐コーチはその記事を見ながら、「200メートルを4分割して考えると、部分部分で君でも泳げるタイムで泳いでいるじゃないか。君にも世界記録が出せるよ」と言うんです。
「病人に向かってなにを言っているんだ、この人は」と思っているところに、畳みかけるように「トレーニングをする」なんて言い出した。「できません」と反発しましたが、なだめられて、わからないなりにコーチの言う通りにしました。
目を閉じて、スタートの合図で、自分が50メートル泳いでいる姿を思い浮かべ、何掻きかしてゴールにタッチしたらポンと手を叩く。それを世界記録の、たとえば36秒でタッチするようイメージしなさい、というわけです。最初は「そんなのできるわけない」と思いながらやっていましたが、繰り返すうちに、36秒で手が叩けるようになりました。つまり、イメージトレーニングです。これで「世界記録で泳ぐ自分」のイメージを定着させられたんです。
12月後半にお医者様から泳いでもいいという許可が出て、1月には合宿に入りました。そこでやった練習が、「50メートルを42秒のペースで泳ぎ、30秒の休息」を1本としてそれを10本繰り返すというもの。その10本が終わったら、次は40秒ペースにスピードを上げて10本。黒佐コーチが陸上のインターバルトレーニングからヒントを得てはじめた方法でした。
辛かったですよ。20本全部、ぴったり指示されたペースで泳がなければ、1本目からカウントしなおし。20本目で一秒でも早かったり遅れたりすると、「はい最初から」と、また20本。人間が測っているわけだから、少しよそを向いていただけですぐ1秒ぐらいずれてしまいますよね。だからよくコーチとケンカしていましたよ。「ちゃんと見てたの?」なんて(笑)。最終的に100本泳いだこともありました。練習が終わる頃にはもうへとへとです。プールから上がるのも嫌、食事もおっくうなほどでした。
そうしたら、高校2年の7月、日本選手権の200メートル背泳ぎで世界記録を出せた。いつの間にかスランプを抜け出していたんです。高3の7月には、1960(昭和35)年のローマオリンピック最終選考をかねた日本選手権でさらに記録更新。この頃から「こういうふうに練習をして、気持ちを持って行けば記録が出る」ということがわかってきました。
黒佐コーチが採用した「イメージトレーニング」「インターバルトレーニング」などは、当時としては画期的なものでした。また、スランプでともすれば沈みがちな私を、精神的にも支えてくれました。だから、ぺしゃんこになっていた私がそのままつぶれてしまうことなく、復活できたんです。決して高圧的ではなく、目標も確認し合いながら決めていった。それはもう感謝し、尊敬しています。本当にすばらしい指導者でしたし、私にとっては父のような存在でした。
第三章 ローマオリンピック
高校3年生でローマオリンピックに出場、銅メダルに輝いた。
女子競泳界では1936(昭和11)年、ベルリン大会での前畑秀子以来のメダルだっただけに日本国内は大いに沸いた。
世界記録を出した頃からマスコミの注目が集まるようになりました。とはいえ本人は、そういうことをほとんど意識しなかったんです。学校では先生は私を特別扱いすることは一切なくて、学校生活はごく普通に送ったし、友だちもたくさんいました。でも水泳の練習に集中できるよう、肝心なところで一線を引いてくれていました。
ローマオリンピックに出場が決まったときも、私自身は全くプレッシャーを感じていませんでした。日本で事前合宿をしている最中は、多くの選手より下の年齢でしたので、ついていくだけで必死。新聞を見る余裕なんてまったくありませんでした。もっともこれは、コーチが我々に見せないよう配慮していたのかもしれませんね。
それに当時は、今と違って情報がとても少ない時代です。外国選手がどんな練習をしてどんなふうに泳ぐのか、まったく伝わってこないから、世界の中で自分の実力がどれほどかもさっぱりわからない。だから「金メダル」と言われても、「そんなにうまくいくわけがないよ」と思っていました。それが、ローマでの予選(1分11秒5)で3、4番くらいに入って、はじめてメダルを意識したんです。
いよいよはじまった女子100メートル背泳ぎ決勝でゴールした瞬間、私には一着でないことがわかりました。「負けた」と思いましたが、終わった、という安堵感のほうが強くて。屋外のプールだったので、水から顔を上げたら月が出ているのが見え「日本と同じだな」と思ったことを覚えています。
当時はまだ、電気計時も電光掲示板も導入されていません。6人の審判がそれぞれに確認した着順を集計して最終的な順位を出すので、選手がゴールしてから結果がわかるまで時間が空くんです。それで、私が決勝が終わったプールから上がり、シャワーを浴びて着替えているところに男のコーチがワーっと入って来て、大変な騒ぎ。「聡子、銅メダルだ!」と。タイムは1分11秒4でした。急いで服を着て、外へ出て歓声にこたえました。
3位でがっかりしたかというと、そんなことはありませんでした。順位なんてどうでもよかった。3位に入ったことにむしろ驚いたほどで、私にとってはベストタイムでしたし、十分な結果でした。「試合に出たらベストタイムで泳ぐのを当たり前にしよう」という黒佐コーチと約束していました。それを果たせたことの満足感が大きかったんですね。
第四章 東京オリンピックを目指して
高校卒業後、スポーツの名門八幡製鐵株式会社(当時)に入社。
企業側の支援体制は整っており、環境には恵まれていた。
しかしそこで田中は壁にぶつかる。世間の期待から来るプレッシャーと、記録の伸び悩みだった。
ローマオリンピックが終わるとすぐに、卒業後の進路について決めなくてはいけなくなりました。そんなとき声をかけていただいたのが、八幡製鐵株式会社(現在の新日本製鐵株式会社八幡製鐵所)でした。一時は「違う可能性も試したい」とも思いましたが、水泳を続けることも考え、その誘いをお受けしました。実はそれからが一番つらい時期でした。会社の水泳部に入った目的はただひとつ、1964(昭和39)年に開催される東京オリンピックに出場してメダルを取ることです。
ローマでの銅メダルは、女子競泳では前畑秀子さん(ベルリン大会200メートル平泳ぎ金メダル)以来のメダルでした。だから、どうしても期待がかかってくる。その重圧をひしひしと感じるようになりました。学生時代は、練習はつらくとも、伸び盛りでしたし、今考えればなんだかんだと楽しかったんですよね。
でも社会人になって世の中が見えてきた。特に20歳過ぎたくらいから、「水泳ばかりやっていてはまずいのではないか」と感じるようになりました。周囲の同世代の女性たちは、嫁入り準備としてお茶お花なんかを習っているのに私は水泳三昧。どうしたって焦りますよ。
でも、高校時代から引き続き指導してくださる黒佐コーチと、「引かれたレールに乗ったからには、やるべきことをやって終わろう」というような話をしました。年齢的に、東京大会が最後のオリンピックになるだろうから、と。
当時は水泳選手のピークは20歳くらいまでというのが定説でした。冗談で「おばさん、まだ泳いでいるの」などと言われたこともありました。今は30歳の選手だって現役として立派にやっていますが、当時はそういう時代だったんです。実際、伸び悩んでもいました。練習をしてもなかなか成果が出ないのです。私の選手としてのピークは20歳ぐらいだったのでしょう。でも世間はどうしたって「次は金メダル」と期待しますよね。でも記録はなかなか伸びず、気分は重かった。
本当に、東京大会を目指していた4年間のことを思い出すと、今でも胸に迫るものがあります。
社会人になってからは、朝8時から4時まで仕事をして、5時から屋外の50メートルプールで練習をしていました。水泳部員は男子が10何人で、女子が私1人。この環境は、私にとってプラスでした。
一緒に入部した平泳ぎの重松(盛人)選手と私は、いつも横で競い合っていました。男子平泳ぎと女子の背泳ぎの世界記録が、どちらも30秒台くらいですから、お互い、ちょうどいいライバルだったんですね。私も3年間モチベーションを保つことができたし、彼も世界新を出したんですよ。
練習環境には恵まれていたと思います。仕事が終われば練習は自由にできましたし、場合によっては早退も許されました。遠征費用も会社がバックアップしてくれるし、その間の給料も保障してくれる。八幡に限らず、多くの企業がスポーツを振興した、黄金時代でしたね。
そして、東京オリンピックに出場(100メートル背泳ぎ)。大会前、「勝っても負けてもいいから、ベストタイムで泳ごう」と、黒佐コーチと話しました。着順は4位。メダルには届きませんでしたが、自分のベストタイム(1分8秒6)を出せて、最高の泳ぎができた。これで競技生活を引退することに、悔いはありませんでした。
第五章 新たなる挑戦
競技生活を引退し、結婚。長女のぜんそくをきっかけに、その後のライフワークとなるぜんそく児の水泳指導に取り組む。
忙しく充実した毎日。今までも、そしてこれからもピンチをチャンスに変え、新しい挑戦を続ける。
1969(昭和44)年、25歳のとき、同じ職場でバレーボール部に所属していた竹宇治清高さんと結婚。子どもが3人生まれて生活は一変、主婦業に専念しました。
再び社会に出たのは、夫が東京に転勤になった1973(昭和43)年のこと。一般の水泳教室のコーチをはじめたのです。
それが、あるときからぜんそく児対象の教室に携わるようになりました。私の長女がぜんそくだったのです。
娘がお世話になった病院の先生が「ぜんそくには水泳がいちばんだという通説があるが、それを実証するデータを取りたい」とおっしゃって、その情熱に私も突き動かされました。その教室を開けるプールを探しはじめた矢先、福岡に転勤することになってしまったのですが、先生の励ましもあり、ぜんそく児教室のプランは諦めませんでした。
福岡の先生を紹介していただき、重症のぜんそく児60人を集めて公共のプールを借りて水泳教室をはじめたんです。私と仲間たちが水泳を教える間、先生や看護婦が機材とともにプールサイドに待機して、子供たちのピークフロー値(呼気の速度。ぜんそくの状態を把握する指標、および発作の予知に役立つ)などを測定。そこで得られたデータを厚生省に提出したら一定の効果が認められ、病院の病棟の横に専用プールを作ることができました。
ぜんそくを持っている子も、発作を起こさなければ健康な子とほとんど変わりません。でも、6月、9月頃は一番発作が起きやすい時期なので、プール授業を受けられず、泳げないまま終わってしまう子が多いんですよ。それで運動嫌いにもなってしまう。だから、水泳を教えるというより、まずは水に親しませることを目的にしました。
まずはプールサイドに座るところからはじめて少しずつ慣らしていくと、6ヶ月もすればたいていの子泳げるようになります。週1回でいいとはいえ、発作がいつ起きるかわからないあの子たちにとっては大変ですよね。それを乗り越えて何年も続けると、ほとんど発作が起こらなくなるんです。水泳の腹式呼吸がいいんですね。それに、湿度が高いので痰が取れやすく発作も起こりにくい。運動したから食欲も出るし、夜はしっかり眠れるようになる。水泳が楽しくてしょうがなくなるから、子どもはせっせと通うようになります。
段々と、泳げない子が泳げるようになって、泳げる子が4種目泳いでタイムが伸びて。1年経つと、目に見えて元気になります。子どもはもちろん、親御さんたちも喜んでくれる。子供たちが水泳を好きになってくれるのはこちらとしても嬉しい。やりがいがありますね。
1989(平成元)年からは、東京の江戸川区でも同様の教室をはじめました。未だに当時お世話になった先生たちからバックアップしていただき、今に至っています。
また、NPO法人JWS(スポーツに関わる女性を支援する会)にも理事として携わっています。たとえば主婦がサッカーをしたいという場合、子どもをどう預けるか、というように、女性がスポーツをしやすい環境を作ることを目的に活動しています。
そんなわけで、忙しくともなかなか充実した日々を送っています。
今、全国にはたくさんのスイミングスクールがあります。それは、世間の期待の大きかった東京大会で、競泳陣のメダルが銅2個という結果に終わってしまったことから、早いうちに才能を育てようという機運が高まったから。エリート教育的な考えが重視されている面があります。水泳に限らず、今は子どもの運動についてかなり専門性が高くなっています。
好きな種目を選びやすくはあるけれど、一方で限られた種目一辺倒にもなりがち。私は常々、幅広くいろいろなことをできる環境を整備したほうがいいのではないかと思っています。私の教室に来ているぜんそくの子たちにも、「水泳だけじゃなくてサッカーやマラソンもできるようになりなさい」と言っています。走ったりすれば発作が起きやすくなりますから、しっかり自分の体のことを把握して、自己管理をできるようにならなければいけません。水泳を原点に、色々なことに挑戦して羽ばたいていってもらいたいのです。
今までの私の人生、ピンチがたくさんありました。娘のぜんそくも、私自身の病気もピンチ。でもそれをチャンスに変えてきたんです。今活躍しているオリンピック選手も、なにもなかった人なんて多分ほとんどいない。第一線の選手だからこそ、ケガとは無縁ではいられないでしょう。
だからピンチがあるのが当たり前で、そのときの過ごし方ひとつで結果はいかようにもなるんです。自分で考え、自分で乗り越えていくしかない。それがいつの間にかチャンスになって返ってくるのだと思います。
「ピンチはチャンス!」この言葉を皆さんに贈ります。
シリーズ第四回:小野喬・清子
シリーズ第三回:竹宇治聡子
シリーズ第二回:笹原正三
シリーズ第一回:古橋廣之進