MENU ─ オリンピックを知る

オリンピズムってなんだろう

第4回 クーベルタン男爵とオリンピック憲章の成り立ち

社会を変えるためにスポーツを取り入れよう

それで、若者を教育するためにオリンピックを開こうと思ったのね。
いやいや、そんなにすぐオリンピックに結びつくわけではないんだよ。クーベルタンがオリンピックの復活を呼びかけるまでには、2つの大きな出来事があったんだ。1つは、20歳のときにイギリスのパブリックスクールを訪問して、フランスの学校とはまったく違う教育が行われているのを目にしたことなんだ。
パブリックスクールってなに?
イギリスにある私立の学校で、裕福な家庭の男の子たちが寮生活を送りながら、紳士になるための教養や人格を身につける伝統的な学校のことだよ。そこでは、教室で学ぶ勉強と並んで、スポーツがとても積極的に行われていたんだ。
フランスの学校では、スポーツはやっていなかったの?
ほとんどやっていなかったそうだよ。クーベルタンによると、当時のフランスの学校には自由がなく、知識を詰めこんで子どもたちの精神を型にはめる、兵舎のような場所だったそうなんだ。一方、イギリスのパブリックスクールでは、自由な気風の中、生徒たちがスポーツを楽しみながら、体をきたえると同時に道徳や社会のルールも学んでいた。クーベルタンは、この点にとても感銘を受けたんだ。
それでクーベルタンさんは、「教育にはスポーツが必要だ」と考えるようになったのね。
そうなんだよ。そしてもう1つクーベルタンに影響を与えたのが、同じように教育に関心を持っていた、フレデリック・ル・プレという社会学者の考えに出会ったことなんだ。
その人もイギリスの人?
いや、ル・プレはフランスの人だよ。彼は、机の前に座って頭で考えるのではなく、実際に社会の状況を自分の目で確かめて、そこから社会を変えていこう、と主張した人なんだ。難しい言葉でいうと「実証主義」というんだけどね。
実際に自分の目で確かめてってことは、クーベルタンさんがイギリスの学校を見に行ったようにってことかな?
そう。だから、クーベルタンはル・プレの考えにとても共感したんだ。そして、イギリスで見てきたことの報告や、教育におけるスポーツの重要性についてなど、たくさんの論文を発表したんだよ。
クーベルタンさんは、本当に自分の国の教育を変えたかったのね。
そう。そしてそのために、彼はその後もアメリカなどいろんな国を視察するんだ。その中で次第に、フランスの教育にスポーツを取り入れるだけでなく、いろんな国の若者が一堂に集まってスポーツをする国際競技会のアイデアがふくらんでいった。それが、近代オリンピックの構想につながっていくんだ。