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シリーズ連載「東京オリンピックから40年」

柔道無差別、神永の敗戦を見守ったひとりの記者・宮澤正幸氏

 日本中が静けさに包まれた一瞬。それは、40年前の東京オリンピックの柔道において、無差別で神永昭夫がオランダのヘーシンクに敗れた時のことだった。

浜田山のグラウンドをひとり走る神永と、それを見守った記者

 東京オリンピックの柔道競技は、軽量級で中谷雄英、中量級で岡野功、さらに重量級では猪熊功がそれぞれ金メダルを獲得していた。そして最終日、日本中の眼は無差別の決勝戦に注がれていた。当時、圧倒的な強さを誇っていたオランダのアントン・ヘーシンクが予想通りに決勝に勝ち上がり、対するのは神永昭夫だった。

 その時、日刊スポーツ新聞の運動部記者だった宮澤正幸は、神永の家族とともに日本武道館の客席の一角から試合を見つめていた。

ヘーシンクと戦う神永  試合開始から9分22秒後、会場は大きな静けさに包まれたと宮澤は記憶している。左けさ固めで神永がヘーシンクに敗れた瞬間のことである。宮澤は客席を駆け降り、記者といえども入る事は許されないロッカールームの前に立った。その時、ドアの向こうから誰とはわからない号泣を確かに聞いた。

 「記者が記事を書く事に、私情を交える事は許されない」という信条で、それまで多くの取材活動を行ってきた宮澤ではあったが、神永が敗れた時だけは「胸がつぶれる思い」だったという。

 無差別に早々とエントリーしてきたヘーシンクに対して誰を差し向けるのか、東京オリンピックの最終エントリーを控え、日本の柔道界は難題を抱えた。神永か猪熊か。大きな議論がそこに生まれた。

 最終的には重量級に猪熊、無差別に神永という決定が下された。そのことは監督の松本安市、コーチの曾根康治から神永に伝えられた。

 「そうですか、わかりました」それだけ言い残すと神永は席を立った。それは多くを語らず、もっとも神永らしい淡々とした態度だったと宮澤は言う。

 神永は宮城県仙台市にある東照宮の近くに生まれ育った。その数軒先には宮澤の叔父が住んでいた。そればかりか、宮澤の本家も東照宮の脇にあったことから、神永と宮澤は自然と親しくなった。それは兄弟付き合いといっても良いものだった。

 無差別にエントリーする事が決まった神永が、所属する富士製鉄(現・新日鉄)の杉並・浜田山のグラウンドをひとり走る姿を宮澤は見ている。

 「神永の最大の弱点は持久力にあった。それをなんとしても克服するために、彼は走り込んでいた」

 背水の陣に挑まんとする神永に、記者と選手の関係を超え、宮澤は腹の底から勝利を願った。しかしヘーシンク相手に、神永の勝ち目が少ない事は、記者としての冷静な眼を持つ宮澤にとって、想像する事は難しくはなかった。それだけに「神永のことが可哀想で仕方がなかった」と40年前を振り返る。

 宮澤はヘーシンクが初めて来日した時のことを覚えている。「ヒョロっとした大男」という印象があった。

 日本で行われた第1回世界柔道選手権、続く第2回の同選手権にもヘーシンクの姿があった。しかしそこではヒョロっとした大男に勝利は無かった。ところがパリで行われた第3回の選手権では、日本勢を総なめにする強さを彼は身に付けていた。その敗れた日本選手の中に、神永の姿もあった。

名著「オリンポスの果実」に感動した運動部記者の情熱

 1930年生まれの宮澤は、1948年に拓殖大学に入学する。同時にレスリング部に入部。国体、インカレにフライ級の選手として出場。卒業後も好きなレスリングの記事が書きたくて、新聞記者になることを決めた。一時、東京新聞に席を置き校閲業務をこなすが、日刊スポーツに運動部記者として移籍。1954年6月のことである。以後、運動部記者として、レスリング、柔道、剣道、相撲、体操などを専門として取材、執筆活動を行ってきた。運動部記者になりたての頃、千代田区・お茶の水にあった日本体育協会に詰めたこともある。そして1932年のロサンゼルスオリンピックにボート選手として出場した作家・田中英光の名著「オリンポスの果実」(昭15.12 高山書院刊)と出会う。「感動を覚えた。一時は主人公の坂本が思いを寄せたハイジャンプ選手の、熊本秋子なるモデル探しもした」というほどにのめり込んだ。文春のNumber誌に「『オリンポスの果実』の真実」も執筆した。

 宮澤の長い記者人生は、スポーツを通した人との出会いの歴史でもあった。それは現役で活躍する選手ばかりではなく、時代を遡ることも忘れなかった。例えば1924年のパリオリンピック。レスリングのフリースタイル・フェザー級で、日本人として初の銅メダルを獲得した内藤克俊。

 「家庭を顧みないほどにレスリングにのめり込んでいた」という宮澤にとって、内藤はまさに伝説の英雄であった。しかしパリの快挙から数十年の時の流れは、内藤の行方を不明のものとしていた。それでも宮澤は、あらゆる手をつくし、ついにブラジルに移り住んでいた内藤を探し出す。

 東京オリンピックの開会式当日。オリンピックスタジアムに内藤夫妻の姿があった。もちろん内藤と日本のスポーツ界とのパイプ役を努めた宮澤の活躍がその裏にはあった。宮澤にとって、内藤との書簡のやりとり、あるいは直接の会話は、貴重な財産となり今の宮澤の中にある。

 1985年、55歳の定年を迎えた宮澤は、その後の8年ほどは嘱託記者として日刊スポーツの紙面に関わってきた。現在は文筆活動とともに、母校である拓殖大学の非常勤・客員講師として八王子キャンパスの教壇に立つ。
講義は宮澤が記者人生で育み蓄積をしてきた「スポーツと人間」をテーマに行われている。

戦い終わって

 神永がヘーシンクに敗れ、涙を流したと報じられた。しかしそれは間違いだと宮澤は言った。試合後も吹き出続ける汗を見た一部の記者が、それを涙と勘違いした。そのことを宮澤は直接神永に聞いている。

 「あの時、本当に泣いたのですか」
 「いや、泣いてなんかいませんよ。汗ですよ」

 神永は絶対に嘘をつく男ではなかったと宮澤は言う。ロッカールームの向こうから聞こえてきた男の号泣も、神永ではなく他の日本選手達だったのだろう。神永は常に紳士的であり、他の模範であった。

 9分22秒の戦いの直後に訪れた一瞬の静けさ。それは武道館だけではなく、テレビ中継を見入っていた日本国民全員を包み込んだ。一方で、勝利の後も未だけさ固めを解き放たず、神永を左懐に押さえ込んだままのヘーシンクの右手が上がった。それは勝利に狂気した自国・オランダチームを制するためだった。

けさ固めで敗れた神永
宮澤正幸
・宮澤正幸 みやざわ・まさゆき
 1930年生まれ。拓殖大学ではレスリング部に所属。大学卒業後、日刊スポーツ新聞社に運動部記者として入社。同社を退職後もスポーツジャーナリストとして活動を続ける。絶対的なこだわりとして「オリンピックを五輪と表記するのは絶対にいやだ」「柔道の無差別に級をつけるのはもっと違う」という考えを持つ。

Photo/(C)フォート・キシモト
掲載日:2004.5.27

東京オリンピック1964