東京オリンピックが残したもの
オリンピックで変化した選手強化
この時まで日本は戦後2度のオリンピックを経験しましたが、取った金メダルはヘルシンキ大会で1個、続く1956年(昭和31年)のメルボルン大会でも4個でした。開催まで6年足らず。東京大会で開催国として恥ずかしくない成績を収めるにはどうしたらいいか。各スポーツ団体の全国組織を統括する体協が打ち出した秘策は『選手強化対策本部』の設置でした。
それまで、いわゆる選手強化は各競技団体が思い思いの方法でやっていましたが、それでは抜本的効果は期しがたいとして、体協はJOCの中に東京大会実施20競技の団体代表、文部省、学識経験者、中体連、高体連など、スポーツ関係者の総力を挙げて取り組む体制を1960年1月からスタートさせたのです。
選手と指導者の育成強化を並行して進めるために、海外遠征、強化合宿、海外からの指導者招待、研究、研修会などを活発に行い、特に技術の改善、体力トレーニング等の分野にはスポーツ医科学のノウハウを積極的に導入しました。スポーツ医科学は日本が最も立ち遅れていた分野なので、その活用は強化に多大な成果をもたらしました。
いまでは常識になっている選手強化のさまざまな方策は、東京オリンピックを契機に始まったもので、選手強化対策本部設置のアイディアは、東京大会後は形を変え、JOCの重要機関として常設させることになりました。オリンピックまでの5年間で、同本部に注ぎ込まれたお金は、国庫補助6億5000万円を含む20億6000万円に上りました。今ならその10倍ぐらいにもなるでしょうか、これが『金メダル16、銀メダル5、銅メダル8』計29のメダル獲得(この時点での日本歴代最高)という成果に結び付きました。金メダルの16は、大島鎌吉強化対策本部長の公約『15』を上回るものでした。
最新の技術を駆使したテレビ放送、スポーツ面のみならず1面から社会面までにわたる報道を展開した新聞など、メディアの連日の大サービスは、国民の多くをオリンピック漬けにしました。これまでスポーツに縁遠かった人々までが、全身全霊で勝負に挑む選手の姿に感動し、スポーツの魅力の虜になりました。バレーボール女子の日本対ソビエトの決勝で、テレビの視聴率が85%に達したことは、その象徴的なニュースでした。
こうして、スポーツをより身近に思うようになった人々を、今度は実際にするスポーツに引き込む機会が、オリンピック後1年もしないうちに訪れました。さまざまなスポーツのクラブ(スクール、教室など呼称はさまざま)の登場です。東京オリンピックに参加した役員や選手の中には、その反省から「スポーツはエリートをつくるだけが目的ではない。みんながスポーツを生活の一部として楽しみ、必要に応じて体力づくりや健康増進に役立てればよい。同時にスポーツを楽しめる環境整備が必要」と考えた人々がいました。
そういう人々が自分の考えを実行に移しました。第1号は水泳のヘッドコーチだった村上勝芳さんが、代々木オリンピックプールを会場に始めた水泳教室。続いては体操の小野喬・清子夫妻が東京・池上で子どものためにスポーツクラブを組織しました。これら新しい動きに同調する人も多く、数年後には水泳クラブの全国組織が誕生。その中のエリート育成を目標に掲げたクラブは1972年(昭和47年)のミュンヘンオリンピック以降、代表選手が誕生するようにもなりました。
発展するきっかけとなった。写真は小野喬選手の鉄棒。